誕嘉鴣のあれこれ
斉藤一人さんの100回テープを聴いて
1ヵ月(30日)に100回がんばって聴きました。人のお話を一通り聴いて、“あゝ、わかった、わか った”程度の経験で過ごして来ております。100回は初の試みでした。
先ず、○一番 自分に欠けているのは出し切る!≠セと、
テープを耳にしてはじめてのキーワードとなりました。
○二番目に、具合の悪い人に気を取られ、にがい経験のある私は、
余り近づかない事で卒業しているつもりでしたが、
これで良いのかしら?と良心の呵責のような不燃焼部分が正直ありました。
姑との関係です。
このテープをくり返し聴いて、当人はそんなに困っていないのだ!≠ニ
言い切り、捉えると、“成る程そうか・・・”と新鮮な空気を吸った思いで、
気が軽くなりました。
そして見守ってあげる℃魔ノポイントを置くという関わり方、
シンプルな関わり方に整理できました。
○三番目に得を積む事に意識を置くようにしようと思っています。
○四番目に気をもまないで、気を配るという心の運転の仕方にも“成る程そうなんだ”と気づか せていただきました。
4つのお話はどれも人や世の中に循環を生み出す、大切な、
つながった良いポイントなのですね。
100回実践は徐々にスタートしている様に感じます。
しっかり私の能力を出し切る事を具体的にスタートしました。
私は歌い手です。コンサートをどんどん開いて
多くの人々に役立とうと決意をしました。
私にとっては大きな変化です。
ありがとうございました。
和歌山県日高町立日高中学
朗読コンサート“神様五分前”に寄せて
2004.8.6. 松原誕嘉鴣
私は、1941年太平洋戦争勃発直前に生まれました。
大阪で生まれた私は、空襲がひどくなり3歳で京都へ疎開(そかい)しました。大阪での空襲のひどさを物語る私の記憶として、昼寝をしている時に空襲があって、たたき起こされた時、空が真っ赤に焼けていたのを覚えています。2歳位の頃でしょうか、目に焼きついています。
その外、戦争にまつわる記憶は、防空壕の土の匂い、又戦後は、母の着物と農作物との物々交換に連れられて母と歩いた暑い日の事、絨毯(じゅうたん)で作ってもらったゴワゴワのズボンの事、等々の戦後の貧しい生活のエピソード等です。
でも、何と言っても大人に保護されての記憶ばかりで、戦争をかすった程度の体験です。戦争真っ只中で命をかけて戦った方々の体験は、あまり耳にする機会もないものです。私もこの日記に出会って、命のこと、平和への思いを改めて感じさせられ目覚めさせられました。作り事でなく、生の体験である事が、なによりもストレートに心に浸透して来ます。九死に一生を得た戦争体験の方々も、戦後40年間、体験談を語れなかったと言われるのをよく耳にします。それほど心に傷をおわれたのですね。
戦争を作り事のドラマのようにしか感じられない昨今、戦争に限らず、魂や、命の大切さに、鈍感になりつつある様に思えます。このまま時が流れて行ってしまってはならないことを改めて気づかされました。
この日記から一人一人が何かを感じて、命を大切にする思いをより強く成長させて行ってほしいと思います。
平成16年4月30日
朗読コンサートが4月26日付京都新聞夕刊の第一面に
大きく取り上げられました。
今の時代に必要なこととして載せて頂いたのだと思います。
平成15年10月19日
晶子ちゃん、
メールをありがとう。
私の求めているのは 願わくばそこに存在するだけで
まわりへプラスの波動
(元気になるとか、気持ちが落ち着く、いやされる等の影響が ある)が伝わるなんて最高ですね。
その本体創りは、ヨーガ、ヴォイス・トレーニング、サタナマ瞑 想に大きく支えられています。<声に発する(しゃべる、朗読す る、歌う)以前に>
※井尻晶子さんからのメール
CDどうもありがとうございました。
ヨガから帰ってから毎日聴いています。
まず感じた事は、「エネルギーが美しい」と感じました。
特に誕嘉鴣さんとオガタさんの演奏は
とても美しくて、
自分の波動がみだれてたりするのがよくわかるくらい美しかった。
そう感じれることもまた嬉しく思いました。
すーっと体の中がきれいになっていくのがわかりました。
オガタさんのピアノも素敵だし、みすずさんの詩も素敵だし。
私の心にぐっとくる大好きな曲は、「ほしとたんぽぽ」です。
また、いっしょに歌えたらなあと思います。
みすずさんの詩を本屋さんで立ち読みしてて、
胸にごーんときたものがあります。
それはたぶん「海」という題だったと思うのですが、
「死」についてかかれてある詩です。
詩の深さに圧倒されました。
私もこんな深い詩を書きたいと思いました。
バジャンの部については、「シャンカラ」がめっちゃかっこいいですね。
鳥肌たちそうって感じでした。
自分達の歌も素敵に聴こえました。
少し自信になりました。
あとはいろいろ未熟さも見えましたが、それも勉強のひとつですね。
いろいろ感じさせていただきました。
ありがとうございました。晶子
2月7日
陽子ちゃんへ
V.T.(ヴォイス・トレーニング)先ずスタートしましたね。
ヨーガに続いてV.T.とハードといえばハードだったかも知れませんが、ヨーガで体が開放された分体の勘 が良かった、浸透率が 高かったかも知れません。
体のことはご主人(頭)の知らぬ間に体自身が勝手に(?)にわ かってくれていく 、成長して行ってくれる ー。というところがあります。
体が受け入れてくれるシゲキ、アタックするとインプットされて、
あとは細胞におまかせ!というパーセントが大です。 (細胞の自主・自立)
ヘソ下6〜7cmのポイント(中心・丹田)を徐々に練って行きましょう。
特に逆腹式の呼吸法覚えてる?やってみてください。松原誕嘉鴣
平成15年1月19日
中村津由美様
先日のTHDでの講演に参加致しました。松原誕嘉鴣でございます。
とてもよかったです。お会い出来、強引に握手を求めてしまいました。私はそう簡単に感動出来ない不 幸なところがある人ですが、THDのお誘い情報で中村社長のことを知り興味を持ちセミナーに参加し、 名刺交換をさせていただき・・・。という積極行動を致しました。
勿論そうさせてしまう感動を引き起こしてくださった中村津由美さんあってのことで、とても感謝致し てます。私自身の土とのかかわりはホンの趣味にとどまるスケールの小さいレベルですが、本質はスケ ールの大小とは関係なく、本物であるかどうかですよね。
津由美さん 中村社長は、すごい本物でいらっしゃるのに感動したのですね。
翌日テレビで長野県の田中知事の話を聞き、これまた本物に出会えたよろこび 感動があり拍手を致し ました。
“本物とは何ゾヤ?!”と改めて思っています。本物、本物と言うけど・・・、シンプルなれど難しい のですね。それだけ私達当り前と思っている事の中に汚れた事が沢山あって、からみ合って本物が明確 に見えにくく、た易くわが身にフィットしにくくなっている。
とに角“人は本物に感動する”のではなかろうか。本物を感受するアンテナがさびついている不幸もあ りますが。人はみんな本物になれる筈ですよね。
自分のヴィジョンを深めて、みんなが輝けるのがハッピーですね。私は身体が楽器として人に感動を伝 える事が出来るように、と今61才でず〜っとその道をしつこく求めています。歌い手です。又チャン スがあればお聴き下さい。
本当にありがとうございました。早速に庭で”銀河の星”(土の中に眠っている藍藻が目を覚まし、酸素を発生し、残留する農薬やダイオキシンなどを分解する土壌改良剤)と共生する実践を致します。
2003.1.19.
松原誕嘉鴣
※中村津由美さん
人も地球も健康に蘇える土壌改良剤「銀河の星」を用いた“天緑農法”を開発した(株)みどり共生 社長
一年が早くめぐってくるのを感じます。
今年もやっぱり歌の旅・魂の旅・自分の旅を続けて行きます。
又よろしくお願い申し上げます。
2003.1.1. 誕嘉鴣(TAKAKO)
平成14年12月13日
テラ・ルネッサンス結成1周年記念トーク&コンサートに参 加して
一年前に私たちは立命館大学国際平和ミュージアムでの「戦没青年の遺書・遺品 展」を見て、非常に心 打たれました。この作品は、大塚晟夫さん(おおつか ・あきお 1945年4月28日、沖縄嘉手納沖 にて特別攻撃隊員として23歳 で戦死。)の日記にある姉妹たちへの別れの言葉に基づいています。私 たちの 思いをプロローグとして加えました。
戦没青年鎮魂曲 「俺は好きで死ぬんじゃない」
松原誕嘉鴣作曲
【プロローグ】
今、私達は生きています。
人が引き起こした戦争
それによって悲痛な思いで
死を選択せざるを得なかった若い魂達。
沢山の若い魂達は
「せめて、この死をムダにしてほしくない!」
と、遠い過去から私達にメッセージを送っています。
決意の死とひきかえに
彼らが欲しかったものとは
一体何だったのか。
私達は、この命にかえてのメッセージを
永遠にひきついでいくことを
改めて深く誓いたいのです。
『はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残るところなく死ぬんじゃない。国の前途が心 配でたまらない。いやそれよりも父上、母上、そして君達の前途が心配だ。心配で心配でたまらない。 皆が俺の死を知って心定まらず悲しんでお互いにくだらない道を踏んで行ったならば、俺は一体どうな るんだろう。
皆が俺の心を察して今まで通り、明朗に仲良く生活してくれたならば俺はどんなに嬉しいだろう。
君たちは三人とも女だ。これから先の難行苦行が思いやられる。しかし聡明な君達は必ずや各自の正し い人道を歩んでゆくだろう。
俺は君たちの胸の中に生きている。会いたくば我が名を呼び給え。』
(1945年4月21日の日記より)
演奏後楽屋前で、ピース・メーカー井尻正人・晶子夫妻と